
今日から2学期がスタートしました。残暑厳しい中でのスタートとなりましたが、今朝は、「おはようございます」のさわやかな声が学校に響きました。
2学期の始業式もリモートで行われました。
校長先生から、コロナに負けず楽しい2学期をつくるために、1学期の振り返りを2学期につなぐことについてお話がありました。特に、早寝・早起きをすること、交通ルールを守り安全な生活を心がけることについてがんばっていくことを確認しました。
続いて、代表児童による「1学期を振り返って2学期がんばりたいこと」の発表がありました。「読む力をつけたい」「資料を使って調べ学習をがんばりたい」など,1学期の振り返りをふまえて考えた2学期のめあてを発表しました。
とても暑い日でしたが、干布小の子供たちは、元気に学校生活をスタートさせました。






・空也とは、平安中期の僧で市聖(いちのひじり)、阿弥陀聖とも称された浄土宗の先駆者であり、踊念仏を始め、念仏により人々を教化したと伝えられています。
出田原
・神社の祭神は、稲作の神様であり、五穀(米、麦、粟、黍、大豆)を司る神でもある倉稲魂命(うかのみたまのみこと)です。稲荷神社を信仰する人々は「花輪」の苗字を名乗り、この神社を氏神としています。
・神社の祭神は、日本神話に登場する大八島(おおやしま、日本の意味)を造ったとされる男性神の伊弉諾尊(いざなぎのみこと)です。熊野神社を信仰する人々は「工藤」の苗字を名乗り、この神社を氏神としています。
・高さ75cmの石碑で、頂部に種子(梵字)で「アーンク」を現し、その下に「八日」と刻んであります。種子のアーンクとは大日如来のことで、八日とは湯殿山信仰の講中のことと思われますので、この塔は八日講中が建てた「八日塔」と考えられます。
芭蕉の句碑
・この石鳥居は、凝灰岩で造られており、笠木の長さ6.2m、柱の高さ3.17mの大鳥居です。雨呼山権現(龍神様)への奉納であろうと推測されます。
石倉不動尊
・雨呼山の八合目付近に、杉の古木が数本立ち並んでいるところがあり、ここを「龍神の森」と呼んでいます。また、その下に、日照りの時も涸れたことがないという、水が溜まる、約2~3坪の大小4つの池が「龍神の池」です。
・元文元年(1736年)に建てられました。本尊は地蔵菩薩(地蔵様)で、山寺参詣で賑わった山寺街道の道行く人々の安全守護や子宝に恵まれるなど、村内外の人々からご利益があると信仰されてきました。祭典は8月の第3日曜日です。
・覆堂の中に2基の板碑があり、右の板碑は愛染明王、左の板碑は庚申塔として古くから信仰されています。






・凝灰岩で出来ている板碑で、最も大きいものは高さ2mあり、弥陀をあらわす「キリーク」の種子(梵字)が刻まれています。
・今から二千数百年前の縄文時代後期の集落跡で、近年まで、石鏃(やじり)・打製石斧(おの)・石匙(さじ)・石棒の石器類、瓶・勾玉その他の土器類の遺物が数多く出土していました。平成8年、農道拡幅工事の際に、天童市教育委員会主体で約200平方メートルの発掘調査が行われ、ここから縄文後期末、晩期前半の土器片が多数出土しています。
・この清水(しみず)は、江戸時代1本の松の根元から湧いていたので、誰いうとなく「松の木清水(まつのきすず)」とよばれるようになったと伝えられています。ここは天正12年(1584年)の天童・最上合戦時の最上軍の本陣跡と伝わっていますが、天童軍本陣の「梨の木清水」とはあまりにも近く「松の木清水」そのものが現在地でなく、別の場所にあった可能性が高いと思われます。
・梨の木清水(なしのきすず)は、この清水(しみず)の近くに梨の木が自生していたので誰いうとなく「梨の木清水」と呼ばれるようになったと伝えられています。この清水の歴史は古く、戦国時代の古文書にもその名称を見ることができ、天童・最上合戦のときには当地の天童軍の本陣が置かれたと記されています
・この豊栄稲荷神社は、道路向かい側(西側)にありましたが、道路工事に伴い、庚申供養塔「天明4年(1784年)建立」とともに昭和60年(1985年)に現在地に移したものです。
三瓶墓
・源義家が、平安時代後期に勧請して創建されたと伝えられています。
・江戸時代の弘化2年(1845年)に、その北辺に広がる水田の灌漑用溜池として、原町村・奈良沢村・荻野戸村をはじめ周辺の多くの村から、1軒につき1人の人足を出して造ったのがはじまりといわれています。
・天童堰は、立谷川から取水する山寺堰の一つで、山寺地区地蔵堂下の二ッ筒で、荒谷方面に流水する「高擶堰」と等量に分水され、干布方面に流水します。さらに、この堰は、原町の東部で「北堰」と「南堰」に分かれて、原町の集落を流れます。南堰は「矢野目大堰」と称して、矢野目まで直流する堰です。
原町
月山神社
奈良沢
真宗大谷派
・実業家の水戸部弥作氏が、昭和初期の不況下に、失業者救済をかねて築庭した日本庭園です。
曹洞宗
・昔、この地で慈覚大師(円仁)と出会った天邪鬼は、自分の怪力を見せつけるため、ここより南方300m先の山麓から、150貫(約560kg)の大きな石を水田まで投げたと言い伝えられています。その時の大石が、この礫石です。
奈良沢不動尊
・天童三不動尊のひとつ。別名「逆さ水不動尊」とも呼ばれています。
上貫津の東漸寺跡の前を流れている水路を、東善寺堰(水出山の麓から奈良沢不動尊まで)といっています。元禄2年(1689年)、奈良沢が8分2厘(82%)、貫津が1割8厘(18%)に分水され、その分水石(写真)が現在もそのままの状態になっています。
伝説によると、天邪鬼が若松から山寺まで一夜で橋をかけようとして、山の尾根へ3個の大石を運んだが、橋をかける前に、「東漸寺」で飼っていた鶏が、朝になったことを告げたので中止したという伝説の大石です。